こじか組春の懇談会 資料

2、3歳の「気張りの時代」

 「大きい小さい」などの比べるちから「一つ」だけではない「あれも、これも」と欲張りな心をもった1歳児は、「もっと(ほしい)」「いっぱい(ほしい)」「おっきいのがほしい)」と言いつづけるようになります。実は、この欲張りな心に導かれて、心のなかの「〜ではない・・・だ」という「対」は、2、3歳になると「大きい 小さい」「多い少ない」などと「比べるちから」になっていきます。
 「比べるちから」は、「数」概念につながるとも言われています。確かに「大きい小さい」などがわかりはじめる2歳になると、「一つ」と「二つ」がわかるようになり、そして3歳で「三つ」、4歳で「四つ」へと「数の理解」は発達していきます。
 念のために述べますが、指で押さえて「一つ、二つ、三つ…」と数えることと数の理解は、違ったちからです。指で「一対一対応」させて数えることは、簡単にできるようになるでしょうが、「一つ」と「二つ」を区別し、違った「大きさ」をもつものだと理解しているわけではありません。数の理解は、「ひとまとまり」の大きさを理解することなのです。だから、自分にとっても他者にとっても意味のあるものとして「一つ」「二つ」「三つ」などの違いが理解できるようになっていく「気づき」の経験が大切です。 子どもは、たとえば「おやつ」を「配り、「ごはん」の配膳を手伝う 「しごと」を楽しむなかで、「数」の大切さに出会っていくでしょう。
 この「比べるちから」が獲得されると、友だちに「かしてあげない」と言い張っても、おとなが「大きいのじゃなくて、この小さいのかしてあげたら」などと心の整理を手伝ってあげると、ちょっとの我慢をしてくれるでしょう。欲張っているだけではない、少しの我慢ができるようになるのです。
 「比べるちから」のように、「わかる」という認識の発達は、世界のいろいろなことを理解するだけではなく、自分を理解し自分の心をコントロールするちからにもなっていきます。

大きい自分になりたい
 「大きい 小さい」がわかるころ、不思議と自分より小さい友だちやあかちゃんに心ひかれるようになり、手をひき、着替えなどを手伝ってあげようとします。小さい子がびっくりして泣いてしまったりするのですが、本人は「おにいちゃんになりたい」「おねえちゃんになりたい」と願っているのです。
 そんな前向きな発達の願いをもちながら、このころの子どもにはおとなを悩ますいろいろなことが現れます。一つは、「くせ」や「こだわり」です。指すい、爪かみなどが、70%以上の子どもにみられるそうです。人形が枕元にないと眠れない、寝るときに電灯を消したり、トイレに入るのを怖がるような姿です。もう一つは、大好きなおやつなのに「いらない」と背を向け、ほんとうは楽しい散歩なのに、「いかない」と意地を張る「反抗」の姿です。
 おとなから見た「困ったこと」の多くは、子どもにとっても「困ったこと」の多い現実のなかで、そうするしかないという「心のメッセージ」です。 自分の葛藤や不安自覚し、ことばで表現できるなら、こんな表現方法は必要ないでしょうが、そうできないから、やめようとしてもやめられない「くせ」や「こだわり」、「反抗」が現れてしまうのでしょう。
 子ども本人にとって、発達の節をのりこえていくことは、よいことばかりではありません。周囲のことがいろいろとわかるようになると、新しい問いと悩みが生まれるのです。それは、「大きい自分になりたいけれど、なれるだろうか?」という自分への問いであり、「大きくなった私を認めてくれる?」というおとなへの問いでもあります。
 そんな心をもっているので、「おやつ」や「お散歩」というすてきな誘いであっても、おとなの側に決定権があるような誘われ方には、「大きい自分」として自分で決めたい心が「反抗」してしまうのでしょう。
 自分で決めることは、自分で活動を締めくくることでもあります。おとなは日常のなかで、「早くしなさい」「もうやめなさい」と何度も子どもに言ってしまいます。おとな同士の関係で相手のペースにあわせたり、辛抱強く待つことは、簡単なことではありません。子どもにたいしては、なおさらイライラしてしまうのです。
子どもは、おとなをイライラさせるために、行動を切り上げないのではありません。「大きくなった証」に、自分で納得できるピリオドを打ちたいのです。自分でシャツのボタンをとめたい、からだを拭きたい、でもまだじょうずにできない。そんな姿を、覚悟を決めて見守れるでしょうか。「まあいいか」と大目に見てやることができるでしょうか。子どもは、 おとなの「大きな心」から、他者を受けとめることのできる「大きな心」を学んでいきます。
つまり子どもがいろいろな「心のメッセージ」を発信しつつ願っているのは、「大きい自分」になりたいということです。大きい自分になれたと実感でき、そしていっしょに生活するものに、わがことのようによろこんでもらえたときに、子どもは葛藤や不安の支えであり、発達の矛盾に一歩踏み出すための準備体操であった「くせ」や「こだわり」から卒業していくことでしょう。


引っ込み思案
「比べるちから」の発達は、「大きい自分になりたい、でもなれるだろうか」にはじまり、いろいろな悩み、葛藤を生んでいきます。たとえば、友だち集団のなかに入ることを嫌がることがあります。保育所に通っている子どもは、「朝のあつまり」の「お名前呼び」で、返事をすることに臆病になったりします。自分の「得手不得手」を感じているので、ちょっと苦手な粘土や折り紙が今日の活動だと知ったら、机の下に入りたくなる子どももいます。朝、保育所や幼稚園に行くことを嫌がることもあるでしょう。
「比べるちから」の獲得が、「友だちのようにできるか」「おとなに認めてもらえるか」という不確実な自分への不安をひき出すことになったのです。だから、自分の不器用さを感じたり、そのできないことを見つめているおとなのまなざしが気になってしまうのです。
 ちょうどこのころ、「3歳児健診」がやってきます。この健診では、積木を積むだけではなくて、「たて」と「よこ」を組みあわせて、手本と同じものを作るように促されます。「たて」と「よこ」を結びつけた「四角」などを手本通りに描くことも課題になります。 「お名前は何ですか」と聞かれるだけで、お母さんの後ろに隠れてしまうほど他人の目を意識し、それに応えなければならない自分のことが心配なのです。だから、背中を向けてお母さんの膝の近くで何かを作りました。 2歳のときにできた「トラック」を何度も作っていたそうです。きっと心のリハーサルをしていたのでしょう。そして短くない時間を過ごして、自ら机に戻って積木を作りはじめました。でも、自分の不確かさゆえに、お母さんの指に思いを託して作ろうとするので、積むことしかできなかったのです。
 この場面を「テスト」としてみれば、「できなかった」とい事実が残るだけです。 しかし、子どもの心の軌跡をたどれば、他人の意図を受けとめて自分なりの道をつくり、せいいっぱいがんばろうとしているのです。それは、「回り道からの挑戦」となり、ずいぶんと時間がかかります。でも、発達の節をのりこえていくための「気張りの時代」の真っ只中にいることを表現しています。「気張り」とは、心のなかで自分をです。励ましがんばろうとすることです。
 すでに述べたように、発達の節には「胸突き八丁」というべき上り坂があります。3歳は、まさにそのときです。発達への願いが高まり、自分の現実との「ずれ」が大きくなるときには、「こだわり」が現れたり、「甘え」「反抗」「あかちゃん返り」が強くなったりします。そんなとき子どもは、自分への「情けなさ」とともにありながら、「気張りの時代」を生きているのです。
 おとなの世界では「勝ち組負け組」 「強み弱み」などということばが当たり前のように使われ、「強い」ことが人間の価値の表現になっています。 でも、おとなが今、子どものころの自分を思い出して、勝ち誇っている自分と悲しみに打たれている自分のどちらを愛せるか心にたずねてみたいと思うのです。
 思い通りにならない自分の現実と向きあいながら、子どもは発達の歩みをやめようとはしません。発達の節をのりこえるための「胸突き八丁」を、歯を食いしばりながらのぼりきろうとしているのです。そのとき、子どもにとって情けないのは、自分の内なるたたかいをおとながいっしょにひき受けてくれないことです。友だちのようにできなくても、教室のなかに入れなくても、無条件の共感によって抱きとめてくれるおとなの胸のなかで、子どもは自分のことを愛せるようになるのではありませんか。

『発達を学ぶちいさな本 子どもの心に聴きながら』より
著者:白石正久

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