あいの保育園

0,1,2歳児懇談会資料②「子どもを見る」大人の課題

0,1,2歳児懇談会資料②「子どもを見る」大人の課題

大人と子どもの争い

 大人と子どもとの争いは、子どもがひとりで活動できるようになると、すぐ始まるのだとモンテッソーリはいいます。それまでは、子どもは五感で自分の周囲の世界を吸収していたので、大人は安心して子どもをかわいがっていました。ところが子どもが歩き始め、ものに手を出し始めると、大人の中に防御本能が目覚め、子どもがすることを防御したり禁止したりしだします。

・「あっ、それ触っちゃだめ」

・「そこに登ってはだめ」

・「もう少しおとなしくしていなさい」

・「そんな汚いことは、やめなさい」

・「おとなしくしないともう連れてきませんよ」

・「だからいったでしょ。分からない子ね!」

・「何回いったら分かるのっ!」

・「ほら、危ない!危ない!」

・「速く、速く」

・「やめなさいっ!」

 お母さんたちが子どもをしかったり、禁止している言葉は、どこに行っても共通しています。共通しているということは、子どもがやりたがることと大人の防御本能が共通していることだともいえましょう。

 大人は勝手で、自分がしたいことはちゃんとやっているのに、子どもがやりたいことをやっていると、それを分かろうともしないで高飛車に禁止したりしかったりします。たとえば次のような場面です。

 四歳ぐらいの子どもを連れて歩いていたお母さんが、ある店の前にその子を置いて、ひとりで中に入っていきました。置いてきぼりにされたその子は、しゃがみこんでなにかやり始めました。なにをしているかとモンテッソーリが近寄って見ますと、そこにマンホールのふたがあって、その子は、そのマンホールのでこぼこをしきりに触っているのです。モンテッソーリは医者でしたから、手のひらと大脳とが発生学的に同じ胚葉からできていることを知っており、子どもが手のひらにでこぼこを感じていることは、同時に大脳にも刺激が与えられていることが分かっていました。モンテッソーリが、その子は今、科学者の仕事にも匹敵することをやっているのだと感心して見ていますと、買いものを済ませたお母さんが店から出てきました。そして、しゃがんで道路を手で触っている子どもを見ると、「まあ、汚い、そんなことしてっ」と叫び、急いで子どもの手をとって、泥を払い、手をひっぱってさっさと歩き始めました。モンテッソーリは、お母さんに無理に手をひかれて去っていく子どもの後ろ姿を眺めながら、「あーあ、科学者はだめになった」とつぶやきました。

 お母さんが自分の仕事をしている間、その子どもも手と脳に刺激を受けて成長する大事な仕事をしていたのに、お母さんは、それを見ようともしないのです。「まあ、汚いっ!」としかりとばすだけで、自分のペースでひっぱっていく大人はなんと勝手なのでしょう。

中略

 モンテッソーリは、大人の勝手さについて次のようにいっています。

 「一方ではうやうやしい敬意を、他方では侮辱する権利を握って、大人は子どもに決定判決を下し、侮辱を与える権利をもっています。大人は、子どもの要求は、自分の裁量次第でそらすか抑制するかができます。子どもの懸命の抗議は、不従順かそうでなければ、憂うべき不信行為とみなすのです」

 「大人は、自分は天性与えられた権利を行うので、自分のすることは後にいつか子どものためになると自分を納得させます。子どもが反抗しますと、大人は実情を調べようと努力しないで、子どもが自分の独立生活を救うためにすることを、みな不従順とか悪いもくろみといいます」

 こんな大人の勝手に出合うと、子どもはその不当さを理屈で分かることができないのですが、心の中でそれを感じ、しょげてゆがめられるのです。気おくれ、うそ、気まぐれ、明らかな理由なしに泣くこと、不眠、極端な怖がりなどのような反応は、子どもの無意識の防御状態なのです。

 子どもとの関係で大人は、よほど細心の注意を払わないかぎり、暴君になり、支配する者、抑圧する者になります。その結果、いちばん愛しているはずの大人が、子どもにとっては、最も深い精神的苦痛や病気の原因になるのです。

 だから大人は、子どもの生命の課題を理解するよう、いつも深く心がけることが必要です。大人が、「子どもを見る目」をもたなければ、大人と子どもの争いは免れないでしょう。大人は、「子どもの見方」をとぎ澄ませていくという課題を与えられているのです。

令和8年10月30日(金)  こりす組 懇談会資料②

著書:モンテッソーリの幼児教育  ママ、ひとりでするのを手伝ってね!

著者: 相良 敦子