「子ども性」を育む
●好奇心や探求心をもち続ける子どもに
子どもが子どもである証は何だろうか?と問われたら、まず私は「好奇心や探求心が旺盛なこと」と答えます。
原始人がなぜ二足歩行をするようになったかはまだ解明されていないといわれていますが、私は原始人が人一倍(否、動物の中できわめて)探求心が旺盛だったからなのではないか・・・と思っています。もっとつっこんで考えますと、立ち上がって視界を広げたかったから(?)ではないでしょうか。正解がない問いに対しては、自由に想いめぐらすことができるのでじつに楽しいものです。
子どもがこの世に生まれて一年余りで立ち上がり、歩き始めると、自らすすんで外界を探索しはじめるという事実が、前述の問いに少ながらず答えているような気がするのです。
「おやっ」「なんだろう」という疑問を抱きながら周囲の探索を始めた子どもたちは、二歳前後で「これはなに」「どうして?」ということばで周囲の事柄を問うようになり、四、五歳になると「いったいそれはどういう意味?」「かんがえるって、こころのなかでだまっていうこと?」「もしもっていうのは、ないけどあったらどうするっていうこと?」とものの本質について追及するようになってきます。子どもたちはこのように、いつも「なぜ」という疑問にとらわれながら、それを追求し続ける存在なのだと感じてきました。
「疑問を持つことは、問題(真理)を発見する力である」といわれるとおり、いつも真理を求めることに敏感です。
二歳五カ月のともこちゃんは、園の帰り道お母さんと夜空を仰ぎ、
「おつきちゃん、まんまるだねえ、おかあちゃん、おつきちゃん、だれつくったの?」と問いかけています。
三歳のたかこちゃんはとめどもなく降り続ける雪をガラスごしに見入り、
「どうして、ゆきはみんなまっしろなの・・・・」とつぶやきます。
四歳のふみちゃんはあるときひょっと、
「ふみはだれのこどもなの?どこからうまれてきたの?」
と母親に問いかけました。
そして、五歳のゆういちくんは、唐松岳にのぼり雲海を眼下にみながら、
「ぼく、かみさまにあいたかったのに、かみさま、おそらにいない・・・・・どこいっちゃったんだろう・・・」
と、誰かに訴えるようにいいました。
人間は、気が遠くなるほど長い時間をかけて、これらのさまざまな疑問を抱きつづけ、今日でもまだよくわからないことばかりです。問いと答の間には、おそろしく長い年月がかかっていて、それが今、現在にも続いている事実(真理)に子どもたちが喰らいついて生きている・・・・・。
詩人の周郷博先生が「子どもは、その幼い時期に、もっともむずかしく、もっともたいせつな生命、自然、人生などを鋭い直感力で総合的に捉える力を持っているものだ」と話しておられたことばが、今も私の体中に躍動しています。幼児は、混沌とした世界から真実を自分の手でつかみとろうと行動しているように思えてなりません。
ところが、電車の中や街角で話している子どもたちは、「おまえ、そんなこと知らないのか」「神さまなんているわけないじゃないか」「そんなこと考えていると疲れてくるからやめたほうがいいんじゃないのお・・・・」と、問いつづけることをあっさりやめてしまいます。
早く正解を出すことばかり求められてきた学校教育の成果(?)でしょうか。
福沢諭吉が『福翁自伝』のなかで「子どもの教育法に就て・・・(中略)先ず獣身を成して後に人心を養うというのが私の主義である」と述べています。その獣身を成すということばを私は、動物のように外界を動きまわりながら体で感じとっていくことの重要さと、動物たちのもつ本能的なバイタリティを養っていくことではないかと読みました。まさに探索活動を言い表しているものではないかと思います。
探索活動は、子どもたちの生きる力を育むあそびのすべての根であること。自分とは?人間とは?を問い始める入口に立つことでもあると思っています。
著書:自我の育ちと探索活動 3歳までのあそびと保育
著者:今井 和子
令和8年4月22日(水) こりす組 春の懇談会資料➀




