3月園だより 教育的断片より~生かせいのち~


2011年03月05日 ( 土 )


(教育的断片) 3月号より
前回は、「生かせいのち」という園の理念に照らして、教育は相互行為である、ということについてお話しました。教育は親が自分だけでするものではないこと、子供は勝手に育つものではないことの両面に触れました。しかし改めて読みかえしてみると、まるで親と子供が一対一でにらめっこをしているような息苦しさも感じます。そして私は、まだ何か言い残している何かがあることに気づきました。親と子供以外の何か。今回はこれについて言葉を継ぎ足して、今年度の締めくくりとしたいと思います。
 親と子供以外の何か。それは物でも人でも場所でも絵本でも何でもよいのですが、私たちがそれに対して、好意的な感情を抱く何かです。憎たらしい人や憎むべきものを、わざわざ私たちと子供たちの間に持ち込む必要はないでしょうから。何か私たちが憧れる物、人、作品。こういうものを、私たちと子供たちの間に上手に持ち込むことができたならば、にらめっこの息苦しさはきっとどこかに消えてなくなるでしょう。
 考えてみると、人間が生まれ成長し生きるうえで、何かに憧れることほど重要なことはないようです。何かに憧れることで私たちは生きはじめ、憧れながら年を重ね、そうした時間が私たちの人生そのものを形づくる。思い返してみると、私も保育園の園児だった頃は、一つ年上の先輩に憧れていました。すごいなあ、かっこいいなあと憧れていました。空手をやるようになってからも、自分よりもずっと上手な先輩に憧れていました。自分もいつかそんなふうになりたいな、とちょこちょこ簡単なことから真似をしていました。そういう様々な人や物との出会いがあって、今に至っています。憧れて過ごした年月は、何があっても取り消すことができません。振り返ってみると、今までのすべての憧れが、憧れながら過ごしてきた時間が、そのまま今の私を形づくっていることに気づきます。
 何にも憧れることもなければ、人は成長する意欲を持たないでしょうし、そもそも生きていたいとも思わないかもしれません。私は、子供たちには、いろんなものに憧れて、いろんなものに手を伸ばし、いろんな仕方で成長して欲しいと思っています。前回私は、大人は、「それぞれの育ちに見合った仕方で子供を刺激すべきだ」と述べましたが、その具体的な内容も、ここに見出されるでしょう。それはつまり、子供が何かに憧れることができる状態を確保するということです。
 子供が何かに憧れるために、私たちは何をしてあげることができるのでしょうか。子供が好きそうなヒーロー(ヒロイン)のテレビ番組をたくさん見せる、おもちゃを買ってあげる。確かにそうしたことも方法の一つかもしれません。でももっと大事なのは、子供の前にいる私たちが、何かに憧れる人間であることだと思います。そうであればこそ、私たちは、何かに憧れはじめる子供の変化に忠実に寄り添うことができるでしょう。逆にそうでなければ、いくら注意して子供に接したとしても、何かに憧れる子供の小さな動きを、それと知らずきっと踏み潰してしまうでしょう。私たちが憧れるものが子供たちに理解できないものだったとしても、それは何ら重要なことではありません。それでも子供たちは、私たちが何かに憧れていることは敏感に感じ取るでしょうし、それこそが重要なことなのですから。
 子供が春にだけ成長するものではなく、日一日成長するものであることは、私よりも皆さんの方がずっとよく知っていることでしょう。年度の変わり目ということで、今回は、「成長」のなかに私が見出したものについてお話させていただきました。

須藤 孝也

姉妹園

赤ちゃんのための申孝保育園

“生かせ いのち”

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