大人と子どもの争い
大人と子どもとの争いは、子どもがひとりで活動できるようになると、すぐ始まるのだとモンテッソーリはいいます。それまでは、子どもは五感で自分の周囲の世界を吸収していたので、大人は安心して子どもをかわいがっていました。ところが子どもが歩き始め、ものに手を出し始めると、大人の中に防御本能が目覚め、子どもがすることを防御したり禁止したりしだします。
●「あっ、それ触っちゃだめ」
●「そこに登ってはだめ」
●「もう少しおとなしくしていなさい」
●「そんな汚いことは、やめなさい」
●「おとなしくしないともう連れてきませんよ」
●「だからいったでしょ。分からない子ね!」
●「何回いったら分かるのっ!」
●「ほら、危ない! 危ない!」
●「速く、速く」
●「やめなさいっ!」
お母さんたちが子どもをしかったり、禁止したりしている言葉は、どこに行っても共通しています。共通しているということは、子どもがやりたがることと大人の防御本能が共通していることだともいえましょう。
大人は勝手で、自分がしたいことはちゃんとやっているのに、子どもがやりたいことをやっていると、それを分かろうともしないで高飛車に禁止したりしかったりします。たとえば次のような場面です。
四歳ぐらいの子どもを連れて歩いていたお母さんが、ある店の前にその子を置いて、ひとりで中に入っていきました。置いてきぼりにされたその子は、しゃがみこんでなにかやり始めました。なにをしているのかとモンテッソーリが近寄って見ますと、そこにマンホールのふたがあって、その子は、そのマンホールのふたのでこぼこをしきりに触っているのです。モンテッソーリは医者でしたから、手のひらと大脳とが発生学的に同じ胚葉からできていることを知っており、子どもが手のひらにでこぼこを感じていることは、同時に大脳にも刺激が与えられていることが分かっていました。モンテッソーリが、その子は今、科学者の仕事にも匹敵することをやっているのだと感心して見ていますと、買いものを済ませたお母さんが店から出てきました。そして、しゃがんで道路を手で触っている子どもを見ると、「まあ、汚い、そんなことしてっ」と叫び、急いで子どもの手をとって、泥を払い、手をひっぱってさっさと歩き始めました。モンテッソーリは、お母さんに無理に手をひかれて去っていく子どもの後ろ姿を眺めながら、「あーあ、科学者はだめになった」とつぶやきました。
お母さんが自分の仕事をしている間、その子どもも手と脳に刺激を受けて成長する大事な仕事をしていたのに、お母さんは、それを見ようともしないのです。「まあ、汚いっ!」としかりとばすだけで、自分のペースでひっぱっていく大人はなんと勝手なのでしょう。
Hちゃんのママには悩みがあって、一度だれかにじっくり聞いてもらいたいと願っていました。長男が通っている幼稚園の園長先生は、カトリックの修道女で親身になって相談に乗ってくれる人だったので、ある日、まだ一歳にならないHちゃんを連れてお話に来ました。園長先生に一時間ほどじっくりとお話を聞いてもらったママは、なんだか胸がすっきりしました。そこで立ち上がって、「今日はほんとうにありがとうございました。 こんなにゆっくり相談に乗っていただけて胸がすっきりしました。うれしゅうございます」と深々とおじぎをし、そばでなにやらおとなしくしていた豆ちゃんを抱き上げようとしました。すると、どうでしょう!Hちゃんは、ママのセーターの後ろに糸口を見つけ、それをどんどんひっぱっていたのです。ママが立ち上がったときは、なんとママのセーターの後ろ半分はほどかれていました!「まあ!この子ったら! たまにおとなしくしていると思ったら、こんなことして!」と、急にママは、かっとしてHちゃんをしかりつけました。園長先生が、「まあまあ、お母さん、そんなにお怒りにならないで。お母さんは、おうちにお帰りになるまでの間の三十分のしんぼうでなんとかなりますが、Hちゃんにとっては、一生に関係するたいせつなことが、ここにあるかもしれませんよ」といいますと、お母さんはますます怒って、「まあ、三十分のしんぼうですって、とんでもない。 先生、私は下にぼろを着てるんですよ。こんなみっともない格好で「帰れますか!」とたいへんなけんまくでした。
お母さんが園長先生と心ゆくまで話をしている間、Hちゃんも、心ゆくまで楽しく手を使っていたのです。セーターをほどいても構わないというのではありませんが、子どもがそんなに長い時間ひとでじっくりそのことをやっていたということには目を注ぐべきでしょう。大人は、自分がじっくりなにかをすることができて心から喜んだとしても、子どもが同じような体験をすることには無関心です。そしてただ自分の利害だけから子どもを怒るのです。大人は子どもに対してなんと勝手なのでしょう。
モンテッソーリは、大人の勝手さについて次のようにいっています。
「一方ではうやうやしい敬意を、他方では侮辱する権利を握って、大人は子どもに決定判決を下し、侮辱を与える権利をもっています。大人は、子どもの要求は、自分の裁量次第でそらすか抑圧するかができます。子どもの懸命の抗議は、不従順かそうでなければ、憂うべき不信行為とみなすのです」
「大人は、自分は天性与えられた権利を行うので、自分のすることは後にいつか子どものためになると自分を納得させます。 子どもが反抗しますと、大人は実情を調べようと努力しないで、子どもが自分の独立生活を救うためにすることを、みな不従順とか悪いもくろみといいます」
こんな大人の勝手に出合うと、子どもはその不当さを理屈で分かることができないのですが、 心の中でそれを感じ、しょげてゆがめられるのです。気おくれ、うそ、気まぐれ、明らかな理由なしに泣くこと、不眠、極端な怖がりなどのような反応は、子どもの無意識の防御状態なのです。
子どもとの関係で大人は、よほど細心の注意を払わないかぎり、暴君になり、支配する者、抑圧する者になります。その結果、いちばん愛しているはずの大人が、子どもにとっては、最も深い精神的苦痛や病気の原因になるのです。
だから大人は、子どもの生命の課題を理解するよう、いつも深く心がけることが必要です。 大人が、「子どもを見る目」をもたなければ、大人と子どもの争いは免れないでしょう。大人は、「子どもの見方」をとぎ澄ませていくという課題を与えられているのです。
【ママ、ひとりでするの手伝ってね!】
著:相根敦子
ママちゃんのひとりごと
独身の頃
ヒールの靴が好きだった
お酒は苦手だったけれど友達と過ごすお酒の場の楽しい雰囲気が好きだった
好きな音楽はミスチルでいつもウォークマンに入れて好きな時に聴いていた
電車の中でゆっくり本を読むのも好きだった
お風呂では半身浴をして
美容院には2ヶ月に1回は必ず行っていた
お化粧するのも好きだった
1人で行く映画館が好きだった
流行りの雑誌を買い
流行りの曲を聴き
流行りの服を着て
流行りの場所へ好きな時に出かけた。
そんな私は 今
泥だらけのスニーカーを履き
子どもたちの着替えやオムツが入った大きなバックを肩にかけ
ちゃんとした化粧もせずに
髪を一つにくくり
毎日
子どもたちの手を繋いで公園へ散歩に行っている。
聴く曲はミスチルからアンパンマンマーチに変わった。
眺めているのはファッション雑誌から
子どもの母子手帳や幼稚園からの手紙に変わった。
考えていることは
今日の夕飯のメニューと
長女が幼稚園から帰ってきたあとのおやつ、お風呂、夕飯の流れの確認。
今日の天気で洗濯物が乾くかどうかと
明日の長女の遠足が晴れるかどうか。
最近眠くなると激しくぐずる長男を昨日つい怒ってしまったから
今日は早く寝かせてあげよう。
今日は怒らないでおやすみをしよう。
そんなこと。
毎日 押し流されるように迫ってくる日常があるから
キレイに片付いた部屋も大の字で朝まで眠れる夜も
ゆっくり塗れるマスカラも
なんだかもう思い出せない。
そう。
思い出せないから
私たちは つい 忘れてしまうのだ。
この毎日が
ずっと続かないということを。
1人でゆっくりお風呂に入れるようになったら
湯船の中 あなたと向き合い数を数え
柔らかく響いたあなたの声を
私は思い出すのでしょう
1人で好きなだけ寝返りをうち眠れるようになったら
どこまで寝転がっても隣にいないあなたのぬくもりを
私は探すのでしょう
好きな音楽のCDを好きなだけかけられるようになったら
この部屋の中に溢れていたあなたの笑い声を思い出して
私は泣くのでしょう
好きなだけお化粧に時間をかけられるようになったら
私の洋服をひっぱり
膝の上によじ登り
私のやることなすことをお邪魔してくるあなたのその小さな手を思い出して
私は泣くのでしょう
好きなだけヒールが履けるようになったら
笑い転げるあなたを追いかけて走り回り
泥だらけになって遊んだあの空を思い出して
私は泣くのでしょう
自分とパパの洗濯物だけを回す日々が訪れたら
砂まみれの靴下も
おしっこを失敗したズボンも
牛乳をひっくり返したシャツも
洗濯カゴにないことを知って
私は泣くのでしょう
あなたの足音がしない部屋の掃除機をかける日が訪れたら
粉々になったビスケットの食べこぼしも
小さなおもちゃの部品も
あなたの細い柔らかい髪の毛も落ちていないことを知り
私は泣くのでしょう
1人で好きなことを
好きな時に
好きなだけ出来るようになったら
どんな時も「ママ」「ママ」と私を呼び
どんな時も私のことを探しているあなたの姿を思い出して
私は泣くのでしょう
一体いつまであるのかな
一体 いつまでここにいてくれるのかな
そして
そんなことを考えているうちに
また 今日も終わってしまった。
私たちの日常は「子どもが側にいる『今』」だから
子どもから離れて1人になれた瞬間が特別に感じて
好きなことを堪能できる喜びを噛み締めるけれど
でも 自分の人生を考えてみたら
特別なのは
本当は 子どもが側に生きているこの毎日の方。
でも 私たちはそれを忘れてしまう。
なんだか ずっと続くような錯覚を起こして毎日を過ごしているけれど
大変に思えるこの毎日に
数えきれない 愛しい が散りばめられていることを
私たちは いつか知るのです。
子どもたちが
この世に生まれてから今日まで
ママとパパのために
全身を力いっぱい使って思い出を撒き散らしてくれていたことに
私たちは 過ぎてから気付くのです。
ママの毎日は
ママでいられる毎日です。
私たちは この命が尽きるまで
どんなに子どもと離れていても子どもを思い、心配し、愛し続ける 子どもたちの母親だけれど
でも 子どもたちの側で『ママ』でいられることの出来る日の
なんて短いことかを
いつか思い知るのでしょう。
今日もあなたは
屈託のない笑顔で振り向き
「ママ!」と言って
両手を広げて こちらに飛び込んでくる。
忘れるものか。
絶対に。
絶対に。
あなたの前髪を切り過ぎて笑った昨日を。
あなたを怒って自分に涙が出た今日を。
あなたの寝相に笑った夜を。
あなたが摘んでくれたシロツメクサの白さを。
あなたに許された私を。
あなたがいてくれるこの毎日を。
私は 絶対に忘れない。
ミスチルも好きだけど
Eテレの歌に感動することを知った
ヒールも好きだけど
スニーカーの安心感が好きになった
自分のことが一番大切だった
そんな私に
自分の命よりも大切だと思える存在がこの世にはあると教えてくれた子どもたちに
心から 感謝を。