令和8年 4月1日
No.711 園長 須藤真悟
何かを育てるということは、規格を揃えて大量生産するということとは違います。何かを100、200育てるということは、まとめて100、200を相手にすることではありません。何かを育てるということは、ひとつひとつを真摯に相手にするということです。たとえをの数が100、200になったとしても。何かを育てるということは、筋力トレーニングみたいにやればやるだけ結果が見えるものでもありません。植物においては水や肥料をあげすぎると、かえって根腐れを起こしたり枯れたりしてしまいます。育てるということは、育てる側の都合やリズムではコントロールできないのです。育てる側がいつも台無しにできる怖くもあり尊い営みです。反対の視点に立てば、育つものに育てる側が合わせるということは、育てる側自身も変化をしなければいけないということです。変化は成長といってもいいですね。
われわれが拠りどころにしているモノに倉橋惣三の『育ての心』があります。その中で、倉橋は、「育つもの」というよりは「育とうとするもの」と言います。「育てるもの」というよりは「育たせようとするもの」と言います。そして、自ら「育とうとするもの」を前にして「育てずしてはいられなくなる心」を倉橋は『育ての心』と呼んだのです。さらに『育ての心』は相手を育てるばかりではなく、「育たせようとする」ことによって、育てる側自身も育てられてゆく心のあり方だと書いています。「育児は、育自」と言われる所以です。
ただ、何かを育てるということは、簡単であるとは言い切れません。育てる側の現在の知識や技量を遥かに超える局面に直面することもあります。学んだことがすぐに結果にむすびつかないことも少なくありません。だって、われわれは機械を量産しているのではなく、一人一人の人間を育てようとしているからです。努力が必ず報われるのであれば、誰だって努力するでしょう。努力が必ず報われる保証などないなかで、それでも情熱をもって取り組み続けられるどうかが問題です。「こう育てれば必ずこうなる」という保証などないなかで、子どもの内に秘められた「自らを育つ力」を信じ、「育てようと」し続けることができるかどうか、それこそが本当の問題です。右往左往しながら「育てようとする」営みが今始まります。
子どもは大人を困らせるさ、にんげんだもの
大人はてんてこ舞いにもなるさ、にんげんだもの
待てないことを後悔するさ、にんげんだもの
でもまたやろうするさ、にんげんだもの
たまに怖くもなるさ、にんげんだもの
最高に愛おしく抱きしめるさ、にんげんだもの
あったかい涙も流すさ、にんげんだもの
やさしくなれないときもあるさ、にんげんだもの
やさしくされることもあるさ、にんげんだもの
※あとは自分で足してください。
何でこんなこと書くかって?
だって春だもの
教育的断片 令和8年4月 理事長 須藤孝也
新しい年度がはじまりました。
消極教育で有名なルソーは、子どものうちに道徳を教えてはならないと言いました。善悪の観念を理解できるようになるのは、中学生ぐらいになってからなので、小さい子どもには道徳を教えても無駄であるばかりか、何が善くて何が悪いことなのか、考えれるようになる下地を壊してしまうため、控えるべきだと明言しました。
ルソーの話は少々ラディカルではありますが、しかし一理あるように私は思います。私たちは、保育園や幼稚園、学校を作って、子どもたちを「社会化」しようとしていないでしょうか。早く大人のように振る舞えと、善悪をわきまえた社会的存在にしようとしていないでしょうか。そうして、形ばかりの「正しさ」を教え込んでいないでしょうか。そんなことで時間を浪費するのではなく、大人とは違った子どもならではの子どもの世界で自由にいろんなことを楽しませるほうがはるかに大事であるように思います。大きくなったときにわからなければならないことは、大きくなるときに身につけるのでしょう。
子どもは善悪も明確には解しませんし、社会の常識も知りません。こんな自由な人たちとともにあることは私たちに大きな喜びや楽しさを与えてくれます。子どもほど、一緒に遊んで楽しい存在はなかなかいません。子どもに接する大人たちは、すぐに子どもの子ども性を否定し、これを単に「矯正すべきもの」と見なし、子どもが子ども時代を謳歌することを妨げるのをやめ、むしろ大人が作りあげた堅苦しい世界から飛び出し、その外部で子どもを遊ぶことを楽しみ、喜んでいいのではないでしょうか。
子ども時代は長くは続きません。どうしたって子どもたちはいつまでも子どもでいないでしょう。いつか子どもでなくなっていきます。どうか、貴重な今の時間を思う存分楽しんでいただきたいです。
今月の絵本
だるまさんシリーズ
『だるまさんと』 かがくいひろし/作
だるまさんと





